私立文系数学選択に関する所感・・・2009年12月28日
- 2012年4月、大学受験時に数学を選択した人の年収の方が選択しなかった人よりも大幅に多いという解説をテレビで目にしました。
これは、本記事を執筆した以前から公表されている統計結果です。
打算で数学を選択するという気持ちが僕は嫌いですから、敢えて記事には書いていませんでした。 - 本「私立文系数学選択に関する所感」のページは、平均閲覧時間が10分以上と、大変熱心に閲覧いただいております。
- 2009年12月16日、ブログの方で、Z会寺西様よりコメントいただきました。
実際に「学生の数学力は明らかに年々落ちてきている」とのコメントでした。
受験科目として数学不要(選択科目)にしている私立大も多いですね。
受験生のニーズに応えたものとか・・・。
少子化に加え、大学数の激増→大学全入時代という状況から、経営的に、受験生のご機嫌を取らなければならないという事情が大きく横たわっているということかもしれません。
また、世の中全体が虚業化する中で、極端に言えば、論理力より「がめつさ力」であるという風潮が追い風となっている背景も無視できず拍車をかけているような気もします。
その一方、様々な論議もある中、社会人の方では、「もっと勉強しておけば良かった科目」として数学を挙げておられる方の割合は非常に高いように見受けられました。
数学なんて生きる上で必要ないと思っていたけれども、仕事する上で、筋道を立てて黙々と問題を解決してゆくというプロセスがまさに数学だったんだと感じておられる方もお見受けしました。
まぁ、生活する上で最低限必要なものと言えば、言葉や四則演算や日本や生活に関する常識とモラルぐらいしか実際にはありません。
そう考えれば、「数学なんて必要ない」は、「歴史なんて必要ない」、「地理なんて必要ない」と同じ位置にあると思うのですが・・・。
もっと言えば、常識以上の学問なんて必要ないということになります。
もし、必要とか必要でないとかの基準で考えるなら、数学だけが標的にされるものではなく、中学校以上の勉強全体が不必要ということになってもおかしくはないでしょう。
----------------------------------------------------------------僕自身の意見を述べれば、正直な話、数学を外す発想自体が愚考だと考えます。
逆に、理系から社会科を外すというのも同様に愚考と思うわけです。
理系バカと同じように文系バカを生産することも好ましいことではないと考えています。
僕自身は国立だからかもしれませんし、時代が違ったからかもしれませんが、多くの文系の友も普通に数学も出来ていました。
同様に、社会科学にも興味を示す理系の学生は、確かに数は少なかったかもしれませんが、歴然として存在しました。
そして、彼らを人間としての幅が違うと感じたのは僕だけでしょうか?
それに、性格の異なった主要な勉強の一つを外してしまうのは如何なものか?
と疑問に思うと同時に、選択制にしてしまうとどうしてもフェアーという面での問題も付きまとってくると思うのですが・・・。
僕たちは何もかも全てを深く学ぶということは出来ません。
最低限必要な母国語ですら、知らない言葉を山ほど残して一生を終えていくものです。
一つのことだけを極めようとすると、それだけで一生を費やしてしまうことになります。
ですから、仕事や必要性や自分の要求に応じて、人にはそれぞれ自分のテリトリーというものを徐々に形成していきます。
文系には文系のテリトリーが、理系には理系のテリトリーが自然に形成されていきます。
まぁ、専門分化ということになるでしょうが・・。
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その一方、「広く学ぶ」ということにもそれなりの意義と意味があるはずです。
と言うか、あります。
まず「広く学ぶ」ということの重要性は、一つには人間が社会的生き物であるという点から考えなければならないと思うのです。
それは、自分以外の他のところで、誰かが汗を流して社会を支えているというイマジネーションが非常に大切なことだと思うからです。
僕たちは、たいていが「自分ひとりが偉い」とか「自分のテリトリーこそが社会を支えている」かのような錯覚に陥りがちです。
しかし、例えば、多くの人に嫌われる「数学」や「物理」を誰もが勉強してこなかったとすれば、文化生活と呼ばれる僕たちの現在の生活は、とうていあり得なかったことでしょう。
そして、この近代的な生活そのものが、僕たちの大半にとっては「心地よさ」あるいは「快適さ」という大きな恩恵を与えているという事実があります。
もっとも、これらの「快適さ」は、受身的に受け入れるばかりでは、決して幸福ばかりに繋がるものではなく、大きなどんでん返しを用意しているものまであります。
ですから、恩恵だけではなく、近代的な生活自体がもたらす弊害という部分にも目を向けていかねばならないことは当然ですが、それもまた違った側面からの科学ということになるのでしょう。
あらゆる意味で、嫌なことからは逃げ回るという姿勢からは、自分のテリトリーとは違った世界に対する想像力を鈍感にしてしまい、ひいては感謝という念を喪失してしまうことに繋がりかねません。
「広く学ぶ」ということの意味の一つは、こういうところにあると僕は考えています。
そして「学ぶ」ということ自体に関して言えば、生きる意義そのものが「学ぶ」ということではないかと思うわけです。
仕事に就く上で必要だったにしろ、ただ単に「学ぶ」ことが面白く感じられるからにせよ、そこには、一人の人間として向上していくという共通のベクトルがあります。
必要であるとか必要でないとか以前に、向上する気持ちを持ち合わせれば自然に勉強はするものです。
なにも学校で習う勉強だけが「学び」ではありません。
「もっと数学を勉強しておけばよかった」と思われた方は、上のように実際に仕事をする上で感じられたのかもしれませんし、仕事には必要な能力とも思えないけれども、人生を味わう中で純粋にもう一度やり直したいと思われたのかもしれません。
何の得にもならないことでも、何かを知る、何かが分かるということ自体がそれぞれの人生に幅を持たせ、充実感をも与えてくれるものではないでしょうか?
昔の純文学でも、その中には科学の話が出てきたり、数学の話が出てきたりします。
文学者や作家と言えども、専門外の勉強も興味があったのかもしれません。
ここで数学に話を戻しますと、数学は、確かに「筋道を立てて問題を解決していく能力」という力を育んでくれる格好の素材でしょう。
論議の発端となったジャーナリスト千野信浩さんは下記のように書かれていました。
話を聞いたある私立大の歴史の先生は、「論文を見れば数学をやってきた学生かそうでないか、一発で分かる」と話していました。
数学を勉強してきた学生は、論理的にものごとを積み上げていく習慣がついている、という訳です。
「企業側に根強い旧国立大人気には、文科系でも数学をやってきたか、論理的にものごとを考える素地があるか、理科系でも歴史や国語の素養があるのかが明らかに影響しています。」
----------------------------------------------------------------この言葉からは、明らかにバランスがとれて且つ優秀な人材を企業は欲している様が伺えます。
少なくとも実業を営んでいる企業であれば、製造業であれサービス業であれ当然の要望でしょう。
松平先生も、自分の出された電子ブックをアフィリエイトしている人々のページを見られて、「私の生徒だったらそれこそ居残りで勉強させたいくらい国語力がなんともいいがたい方もおられます。」と呆れられていたことを思い出しました。
加えて、息子が就活をしていた時期に、「今日日は親にエントリーシートを書いてもらうらしい」なることも耳にして卒倒しそうになりましたが、さもありなんの国語力なんでしょうね。
ネットビジネスとかリアルビジネスに限りませんが、ともかく実体は貧相で空虚な商品なりサービスを売りさえすればよいといった類の会社では論理力など一切不要。
稚拙でセンセーショナルな言葉で消費者を喜ばせる術を会得して、これに長けてしまえば簡単に出世したり成功できる土壌が無くなる日は、日本ではまだまだかかるかもしれません。
しかし、社会的に責任ある企業では、面子にかけてそういうことは出来ませんからね。
さて、Z会の方がブログで仰っていたのですが、いわゆる「学歴優遇」とは別に、「数学選択優遇」は就職の際に確かに存在すると・・。
「数学不要で有名な大学じゃん」と思われた瞬間、「すでにその希望者に備わっている能力」としては1つのマイナスポイントとなっていることが現実だということが書かれていました。
僕が企業の人事担当者であれば、当然同じ視点で選抜していくだろうなとは思いましたね。
数学の選択の可否自体ではなく、どうしてもその裏にある「いやなものから逃げる」という点や、「根気よく論理を積み重ねる能力に劣る」という点を本質として抽出してしまいますから・・・。
何より、仕事でも論理的に自分の取るべき行動指針を導き出せないのでは、雇っておく価値がありません。
もし、数学が苦手だけれども、何とか普通のレベルで理解する程度には向上したいと考えておられるようでしたら、G.ポリアの「いかにして問題を解くか」をざっと読まれてみては如何でしょうか?
自分の普段の勉強する際に、ポリアの問いを自分に課してみることで、自分の課題が見えてくることと思います。
ここから書くお話は、別ページでまとめる予定にしていますが、おそらく小学生や中学生時代に「式さえ分れば解けるのになぁ」と呟かれた方は多いのではないでしょうか?
実は、この呟きこそ、数学の成績上位者と下位者の認知で最も差異が出る認知である事が論文で発表されています。
もうお分かりですよね。
おそらく、この言葉は「式さえ暗記していれば解けるのになぁ」という呟きに置き換えても通じるでしょうね。
「数学は暗記だ」という言葉をそのまま受け取ったが故の大きな誤解が潜んでいることを感じてしまいます。
「分る」が「暗記する」にすり替わってしまっているのです。
そして、いつしか、論理力が骨抜きにされて大人になってしまう。
これが、数学を非選択するということの本質とも言えるのですね。
さて、最後に僕が最も伝えたいことで締めくくりたいと思います。
「学ぶ」ということは、自分以外の他の分野の営みに対する想像力を育むという側面と、自らの営みや人生を向上させるための栄養素となっているという側面で見つめなければならないとに僕は考えています。
即物的な必要性から論じてしまうこと自体が、現代社会における貧しさの象徴であるように思えてなりません。
もし、「そんなことを言っても、現実問題として得で楽なほうが良いに決まっている」とお考えでしたら、【エンデの遺言―根源からお金を問うこと】を一読されてみては如何でしょうか?
「エンデの警鐘」通り、このリベリタリアンの社会にも限界があることは目に見えて明らかではないかと、僕は数十年前から感じています。
手のひらを返したように、政治家の口から「経済成長」の言葉が消えていく日もそう遠くはないのではないでしょうか。
よりよい社会を築くためにも、後世の子孫に汚されない地球を残すためにも必要なことは「論理的であること」なのではないでしょうか。
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